「今度の週末空いてる?」
「あぁ休みだよ」
桜の蕾が少し膨らみ始めた3月の始め
その季節の風景と妻の言葉を
今でも思い出す
「じゃあ週末・・」
「崖に行かない?」
「えっ・・なに 崖って」
「とても素敵な崖を見つけたの」
とても穏やかな妻の笑顔
ショッピングモールでも無く
映画でも無い
そう 崖・・
少し戸惑ったが
「あぁ いいよ」
確かそう答えた様な気がする
約束の週末を翌日に控えた
土曜の朝
小窓から差し込む柔らかな朝の陽ざし
ダイニングにて向かい合う二人
エチオピア産の豆から挽いた
コーヒーの香り
その頃から徐々に
体の輪郭がぼやけだしてきた妻
その妻が
微笑みながら語った朝をふと思い出す
「 あなたオウム貝って知ってる?
約5億年前からいる貝なんだけど
オウム貝の螺旋は
完璧な螺旋と言われているの
それでね
完璧な螺旋には神が宿るのよね
その螺旋の力でオウム貝は夢を見たの
5億年前に深い深い海の下で
それは何億年分の未来
自分達が絶滅する夢を・・
そこでオウム貝は進化の過程で
自分達から
【種】を枝分かれさしていったのよね
アンモナイトなんかもその枝分かれの一種
そしてオウム貝はそれらの【種】に
自分達の【滅びの因子】を埋め込んで
体から切り離したのよ
おもしろいと思わない? 」
マグカップに入った
漆黒のコーヒーを見つめながら妻が続ける
「 海の底にはね
細い細い糸の様なものが
張り巡らされているの知ってた?
常産の糸って言うらしいんだけど
誰も見たことも無いのに不思議よね
でね その常産の糸はね
この地球といつも対話しているんだって
何を話しているかって
多分だけど
いつ太陽から逃げようかって話じゃない
それに常産の糸は遥か上空の空の事も
他の惑星の事も感じているみたい
深海8000メートルの海の底からね・・ 」
オーク材で作られた
ダイニングチェアーに座り
コーヒーの入ったマグカップに
指を絡めながら
どこか遠い眼で話す妻
あと半月もすれば
綺麗な桜の花が見れるだろうに
そうぼんやり思ったあの日
「もっと先端まで行きましょうよ」
足元の岩場に足をとられながら
妻が歩いて行く
風は緩く空は透き通っている
「早く早く」
せり立った崖の先端に立つ妻が呼ぶ
「あなたもここに立ってみて」
妻と位置を交代して
崖の先端に立つ
遥か下の岸壁では
波が休む事無く岩場にあたり
泡と水しぶきをあげている
ギリギリの先端で海を眺める私
後ろには妻
「人類の歴史って」
息がかかるほどの耳元で妻が喋る
「この地球からしたらほんの一瞬」
衣服が軽く触れあう程すぐ後ろに妻
「そうね瞬きぐらいの一瞬ね」
あまりにも妻が近い為身動きが取れない
「ほんの一瞬・・」
遠くの沖には漁船が数隻
「あなたそろそろお時間・・」
「ゆっくり瞬きをしてみて」
「ゆっくりね・・」
そして私は妻の言う通り
ゆっくりと目を閉じた
何秒たっただろうか
目を開けると
相変わらずの青い海とカモメが数羽
わかっているよ
またいつか・・・
「さぁ家へ帰ろうかな」と振り向くと
まだ微かに漂う妻の香水の香りがした
桜の花びらが少し散り始めた4月の朝
コーヒー豆を挽きながら
ふと隣室へと目をやる
8畳の洋間
「あっそうだ母さんこんな話知ってる?」
北欧風のロッキンチェアには
白髪を団子に結い
膝元で本を開き目を落とす老女
「オウム貝はね5億年前から・・・」
「すごいでしょ」
「でね海の底には糸みたいな・・・」
「宇宙とも交信しているら・・」
「全ては海へ還るんだってさ」
少しずり落ちた丸メガネも気にせず
夫人は静かにページをめくる
「それでさぁ母さん」
「今度の休みなんだけど」
「とても素敵な場所を見つけたんだ」
「一緒に崖行かない?」
柔らかな朝の光が差し込む部屋
開いていた本を閉じた老女は
ゆっくりと顔を上げる
そしてにっこりと嬉しそうに微笑んだ。